◆場面3
澄み切った月が、暗く濁(にご)った燭(しょく)の火に打ち勝って、座敷(ざしき)はいちめんに青みがかった光りを浴びている。A1B2C2D2
どこか近くで鳴く蟋蟀(こおろぎ)の声が、笛の音にまじって聞こえる。甘利は瞼(まぶた)が重くなった。たちまち笛の音がとぎれた。A2B1C2D2
「申し。お寒うはござりませぬか」笛を置いた若衆の左の手が、仰向けになっている甘利の左の胸を軽く押(おさ)えた。A1B1C2D2
ちょうど浅葱色(あさぎいろ)の袷(あわせ)に紋の染め抜いてある辺である。A1B2C2D2
甘利は夢現(ゆめうつつ)の境に、くつろいだ襟を直してくれるのだなと思った。A1B1C2D2
それと同時に氷のように冷たい物が、たった今平手がさわったと思うところから、胸の底深く染み込(こ)んだ。A1B1C2D2
何とも知れぬ温い物が逆に胸から咽へのぼった。甘利は気が遠くなった。A1B1C2D1
三河勢の手に余った甘利をたやすく討ち果たして、髻(もとどり)をしるしに切り取った甚五郎は、鼠(むささび)のように身軽に、小山城を脱けて出て、従兄源太夫が浜松の邸に帰った。A2B1C2D1
家康は約束どおり甚五郎を召し出したが、目見えの時一言も甘利の事を言わなんだ。A2B1C2D1
蜂谷の一族は甚五郎の帰参を快くは思わぬが、大殿の思召しをかれこれ言うことはできなかった。A2B2C2D1
花村嘉英(2019)「シナジーのメタファーのために一作家一作品でできること-森鴎外」より