2 「孩子王」でLのストーリーを考える
不当な差別を受けていた人々に暖かいまなざしを注ぐことで抗議を表す鋭い社会への批判が阿城の目線である。「孩子王」は、上山下郷運動の末期、1977年の文革の終わりに時代の設定がある。傍観者のぼくが正面に出てきて、子供との交流を通して真の教育を探り、教育空洞化の原因といえる文教行政関係者による官僚主義と末端の関系者の事勿れ主義を描いていく。
また「孩子王」は、今日の中国で小中学校の教師の代名詞として広く使われている。阿城の文章には、現代風の新しい言い回しがあり、前後の文脈から推測可能である。また、人物の身体的な特徴を侮辱的に指摘した差別用語にあたることばがあだ名として使われている。全体的にのんびりとした、いわば牧歌的な雰囲気があり、ユーモラスな描写が多い。世間一般の価値基準、常識では、些細な取るに足りないと思われるような物事、時として低く見られるようなものに良さ、面白さを見い出そうとする。
後藤(2000)によると、例えば、豚や鶏などの動物や、それらに対する主人公の思いや行為などの描写である。「小便をする」という一般的に言って、あまり表に出せない、隠すべきとされている行為により集団の統率者となるということも逆説的な発想に違いない。また差別を受け、蔑視されているものについても、やはりその良さを見い出そうとする鏡点があるように思われる。例えば、王福の父親王七穂のエピソードなどがそうである。
さらに、文革期の山奥の農村における、物資、設備などの面での不便さをも、そのまま受け入れて肯定的に見て行こうとする、一種の楽天的な弾老の哲学のようなものが感じられる。人間以外のものを擬人化したり、人や動物を総体化した表現が多く見られる。例えば、校庭の子豚が思索したり、人から何をされても食べ続ける牛を「哲学者」に模したり、豚や鶏を見て自分がこの世で人間であることを喜び、もし動物だったら人に見られて恥ずかしい思いをするだろう、と考える場面などである。
主人公は、最後に教師の職を解かれることになるが、「思わず身が軽くなったように感じられた」と表現されているように、一種晴れやかな終わり方になっている。主人公が学校で行った授業のやり方も、自分なりの教育理念、教育論をもっていて、それに基づいて行ったというよりは、自分がそのようなやり方が納得がいくから、生徒たちがそのような状態になるのが好きだから、作品に描かれたような授業のやり方をやったと受け取れる。
そこで購読脳は「自身の教育理念と面白さの追及」、執筆脳は「ユーモアとプラス思考」、阿城の「孩子王」のシナジーのメタファーは、「阿城とプラス思考」である。
花村嘉英(2023)「阿城の『孩子王』で執筆脳を考える」より