王安憶の「小鮑包」で執筆脳を考える2


2 「小鮑包」でLのストーリーを考える 

 王安憶(1954-)は、南京に生まれ上海で育ち、母も作家で父も演劇活動に従事していた。1969年に上海の中学を卒業し翌年母の反対を押し切り安徽省宿県に下郷した。しかし、1975年に農村の脱出を図り文工団の演劇に参加した。文革(1976)が終わりを告げた翌々年に上海に戻り、児童向けの雑誌の編集に携わる。児童文学の作品を発表し、中国作家協会上海分会に加入した。北京の文学講習所にも参加する。
 「小鮑包」は1985年に発表された。母親と短期間米国に滞在し帰国した王安憶は、異文化の影響もあり心の変動から中国について書くことを選んだ。都会の青年や青春もさることかつての下郷から農村についてイメージした。その際、客観性を上げるために村の外から村人たちを観察した。佐伯(1989)は、特定の主人公がいるわけでもなく、鮑庄村の仁義こそがヒロインであるとしている。先祖代々、皆金持ちを敬わず権勢を恐れることがなかった。しかし、仁義だけは大切にしてきた。
 全村人が同姓で悪人はおらず善人ばかりである。例えば、死産を繰り返す女の悪口は言わない。むごい仕打ちだからである。また、毎年洪水があり、ある年外界から得体の知れない力がかかり、村は見渡す限りの大湖になった。大変動である。子供にしてよくできた鮑彦山の七番目の末息子捞查は、大洪水の際、先に木に登っていたら死ななかった。先に逃げていたら助かった。しかし、身寄りのない年寄り鮑五爺を助けようとして死んでしまう。この話を聞きつけた村では、葬式の際二百人が隊列に並んだ。 
 子供にして仁義である。大人はどうか。皆で捞查のために墓を建てることになった。こうした話は広まるもので、作家志望の鮑仁文が捞查について放送用の原稿を書く。捞查は、毎日放課後豚の草刈りが済むと机にかじりついて宿題を書いていた。冬手が凍えても、夏蚊にかまれても書いていた。毎日毎日書いていた。
 取材に来た県の女性記者も捞查が喧嘩一つしなかったことを村の仁義の一例として書き留めた。残念ながら遺品がすべて焼却され残っていない。県の新聞に「小英雄鮑仁平の記」という題で記事が載った。写真はなくとも肖像画があった。捞查の棺は、水辺から村の広場に移され、数段の石段の上に大きな墓を築き、レンガを積み高い石碑を建て碑文も添えられた。鮑庄村で一番高いのは柳の木ではなくこの石碑になった。
 ここに王安憶の原点を見ることができる。つまり客観性が大きく上がっている。作家の頭の使いようとして執筆脳を考える一例になる。そこで「小鮑包」の購読脳は「仁義と多数の主役たち」にし、執筆脳は「観察者と原点」とする。「小鮑包」は、王安憶の原点だからである。シナジーのメタファーは、「王安憶と基準」にする。 

花村嘉英(2022)「王安憶の「小鮑包」で執筆脳を考える」より


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