ペーター・ハントケの「幸せではないが、もういい」で執筆脳を考える-実母のうつ病3


3 ハントケの‟Wunschloses Unglück”のLのストーリー

 オーストリア南部のケルテン州で兄弟姉妹とともに育ったマリアは、父に抑圧されていた。学校では才能を評価され、親切で協調性のある生徒であった。仕事を習得しようと思うも父に禁じられ、15年間実家を離れた。(Wikipedia2)こうした家庭内の葛藤は、将来における気分障害の発症を予期させる。
 彼女の最初の仕事は、皿洗い、部屋の掃除婦、会計係そしてホテルの調理師である。ナチス・ドイツのメンバーであった既婚のドイツ人と恋愛し妊婦になる。男の年齢は、母より上で頭が禿げており、母は黒髪で背が高く、歩くときは平たいサンダルを履いていた。 
 出産前にドイツ軍の下士官と結婚する。子供(ハントケ)を女手一つで育てるのは難しいかったためである。ベルリンにいる間にふっくらしていた頬はこけた。ロシア人とスロベニア語でやり取りをした。しかし、冒険は望まない。戦後は男と愛憎定まらぬ関係になる。大都市での生活は、可能性がなかった。異性関係や家族の問題が気分障害の病前性格に絡む精神的な問題になることもあり、将来のうつ病の引き金と読み取れる。 
 1948年の初夏、夫と二人の子供とビザなしでベルリンからオーストリアの故郷を目指す。転居後は、家族と暮らす。しかし、村での生活は苦しかった。節約が重要で、食事と冬用の燃料以外は贅沢品である。夫が彼女を殴っても、彼女はそれを笑い飛ばした。
 次第に彼女は、居場所がわかってきた。子供が大きくなるまで待つだけである。40歳を前にして三度目の堕胎。再度妊婦となるももはや堕胎はできない。貧しいけれども子供を出産する。妊娠や堕胎そして出産ももちろん気分障害の発症の原因といえる。

花村嘉英(2020)「ペーター・ハントケの『幸せではないが、もういい』の執筆脳について」より

シナジーのメタファー1


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