第64号の巡査の思い違いも巡査としての役割から調節され実証として採用された。つまり、吾人は過失を犯している、吾人の五官による感覚と精神による判断は、瞑想の源であり、不確かさの原因である。一個人の人間の証言は信じてはならない。しかし、番号こそ信用しうる。バスティアン・マトラは過失を犯しうる、しかし、人間性を引いた警官第64号は誤りを犯すことがない。(Bastien Matra est faillible. Mais L’agent 64, abstraction faite de son humanité, ne se trompe pas. C’est une entité.)
刑務所を出たクランクビーユの生活は、何一つ変わっていなかった。以前に比べて居酒屋に出入りするようになったぐらいである。道行く人は、刑務所から出てきた男には関わりたくはない。ロール婦人も然りである。クランクビーユは、誰一人軽蔑はしていない。しかし、彼女にだけ我を忘れて三度も罵しってしまった。
皆がクランクビーユを疥癬患者扱いした。青物が売れなくなり根性がひがみ客の女たちを罵った。野卑な、付き合いの悪い、喧嘩っ早い男になってしまった。(Il devenait incongru, mauvais coucheur, mal embouché, fort en gueule.)飲酒の癖がついていた。しばしば朝の競り市にも間に合わなかった。堕落した自分に気づき、一心で激しくて強い気持ちを持っていた当時の生活は、過去のものとなった。
とうとう一文無しになってしまった。夜遅い時刻に街に出た。巡査が一人ガス燈の灯影に立っていた。40歳位であろうか。近づいていき「犬め!」といってみた。巡査は、人が勤めをしているときにそんなことをいうもんじゃないという。(Quand un homme fait son devoir et qu’il endure bien des souffrances, on ne doit pas l’insulter par des paroles futiles.)クランクビーユは、雨の中を暗がりの中へ消えて行く。
山場は裁判の場面と考え、「クランクビーユ」の購読脳を「現実と実体」、執筆脳を「裁判と無謬性」とし、シナジーのメタファーは、「アナトール・フランスと裁き」にする。「クランクビーユ」は、アナトール・フランスが考える裁きに対する司法官の精神とその方向性とが融合した純度の高い小説である。
花村嘉英(2022)「アナトール・フランスの『クランクビーユ』で執筆脳を考える」より