三浦綾子の「道ありき」で執筆脳を考える3


 綾子の交際相手の前川正も手術が決まる。第一回目に肋骨を四本取ることになる。前川は、麻酔が苦手らしい。手術の間無事に終わることを綾子は祈っていた。その年、昭和二十七年、綾子は洗礼を受けた。正月が来た。前川正は、二週間後に肋骨を四本取るため、二回目の手術を受ける。二回目の手術が終わってから、不吉な夢を見た。正が亡くなったといって彼の母が病室にゴザを返しに来た。あまりにありありとしていて何とも言えない不吉な予感がした。自身の自殺願望すら思い出す。自殺願望も気分障害の症状である。
 ギブスをはめたまま旭川へ帰郷する。31歳になっていた。発病してから8年が過ぎた。前川正の術後の症状を聞くと、血痰が出るという。つまり空洞は潰れていない。翌年の綾子の誕生日4月25日に母上の代筆で和紙に鉛筆書きで書かれた手紙が届いた。5月2日に前川正は亡くなった。前の晩、食事中に意識不明になって、そのまま意識が戻らず亡くなったという。綾子は、病室で号泣する。
 前川正の喪が明けてから、綾子の病室を訪問する客の中に三浦光世という男がいた。旭川営林署に勤務する会計係である。死刑因と文通し、慰め力づけている人であった。やはり腎臓結核の手術歴がある。確かに結核は、侵入経路の大多数が肺出る。しかし、肺や腸、腎臓などの臓器や骨、関節そして皮膚を侵し、胸膜炎や腹膜炎を起こす。三浦は、清潔で静かな表情をし、前川正と趣味や思想が似ていた。綾子は、熱が出て寝汗もかき、血痰が増え面会謝絶になる。病気を気づかう見舞いから、次第に三浦光世に惹かれていく。
 微熱や寝汗はあるも少しずつ体力がついたころ、万一のために遺言を書き、歌を整理していた。自分の死体を解剖してもらいたい。解剖用死体が不足していて、死後に何かの役に立ちたいという思いからである。三浦光世に渡すと、必ず治るといってノートを読んでくれた。三浦の手紙には、最愛なるという形容が綾子の名前についていた。愛の励ましのおかげで、綾子の体は元気になり、外出もできるようになった。
昭和三十四年の正月、三浦の年頭の挨拶のとき、婚約式が1月25日に決まった。式が終わると、結婚式は5月24日になった。よく晴れた日曜日に教会堂で牧師の言葉に二人で深く頷いた。
 回想録執筆時の記憶の中では、肺病のため虚しい思いがつきまとっている。そこで「道ありき」の執筆脳は、「虚無とうつ」にする。ツングの自己評価うつ病尺度(日本成人病予防協会2014)を「道ありき」に適用すると、スコアは53点となり、当時の三浦綾子は、中程度の抑うつ傾向にあったといえる。シナジーのメタファーは、「三浦綾子と虚無」である。

花村嘉英(2019)「三浦綾子の『道ありき』の執筆脳について」より


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