アンドレ・ジイドの「田園交響楽」で執筆脳を考える1


1 はじめに

 パリ大学法学部教授の父とノルマンディー地方出身の信仰一途の母との間にうまれたアンドレ・ジイド(1869-1951)は、10歳で父を亡くしたことからプロテスタントの母の下で清教徒教育を受け道徳的で宗教的な作家になっていく。
 1887年アルザス学院の修辞学級に入学する。そこで散文作品を計画し青春の思いを表現しようとした。詩法も小説の作法も心得ていないジイドは、鏡に向かうように内心の日記を綴ろうとした。後に象徴派の詩人マラルメの文学サロン火曜会の門下生になる。しかし、象徴主義に接近するも同時に脱出も模索していた。旅立ちである。
 1893年10月旧友ポール・ロランスとともにアルジェリアに向かった。世紀末で草臥れたパリとは異なる生命の息吹がジイドの興奮させた。ジイドは、アフリカで全ての道徳が暫定的ということを学んだ。異教徒の世界に飛び込めば、既存の秩序は、自己の防衛手段にすぎない。また、母の死後は従姉のマドレーヌと結婚する。
 「田園交響楽」を執筆していたころは、世の中が末期症状にあり、道徳による拘束が重要ではなく、それを突破することの方が文学の福音となった。プロテスタントからカトリックへの改心を迫られる。しかし、何かが引き留める。カトリックの掟に馴染めない。
 牧師とその息子との対立のドラマに妻との不仲がモチーフである。不仲の理由は、ジイドとマルク・アレグレの同性愛である。
 「贋金つかい」は、ジイドの精巧極まるメカニズムがもたらした小説であり、現代小説、とりわけヌーヴォーロマンにまで影響を及ぼしている。あらゆる価値とモラルを相殺するための複雑なメカニズムである。
 晩年のジイドは、世界中にファシズムが吹き荒れる中で左翼に接近した。無力なブルジョワ社会への反駁である。その後、現代の良心と呼ばれるサルトルも共産主義に接近する。しかし、ソビエトのプロレタリアは、ジイドの理想とはかけ離れたいた。第二次世界大戦では、北アフリカに移動し、1945年の解放とともにパリに戻った。1947年、オックスフォード大学から名誉博士号が送られ、ジイドの人生のまとめとなる。

花村嘉英(2024)「アンドレ・ジイドの『田園交響楽』で執筆脳を考える」より


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