5 鴎外の脳の活動は感情
「鴎外と感情」というメタファーについて、先ずトップダウンで考える。鴎外は、陸軍省の医務局に入り軍医として活躍する傍ら、作家としての才能を開花させる。軍での仕事は、上司からの指示命令によるものであるから、感情については、当然外的な要因による誘発が考えられる。一方、作家として活動している時には、内的な要因による創発が感情の源になる。
二木(1999)によると、感情には喜怒哀楽のようにどちらにも入るものがある。ここでは情動と脳の活動の関係を考えるために、喜怒哀楽の表現を見ていこう。文学の研究を少しでも科学にするためである。鴎外の歴史小説にも内的要因と外的要因による思考が見られることは先にも触れた通りであり、この点を接点に創発が見られる作品と誘発が見られる作品を考察する。方法は、ABのイメージから感情と行動という組を作り、Cの人工知能の組と合わせていく。
5.1 『安井夫人』(1914)
① 誘発の作品として取り上げる『安井夫人』には、幕末の話でも現代に通じる日本人女性の夫への献身が描かれている。日向の国宮崎で藩に任用された父の影響から書物を読んで育った仲平は、小さいときに疱瘡を患い大痘痕となって右目が潰れた。そのため偉くなるとも不男とも噂された。彼の青春時代は、どこかに負い目を感じるものだった。
② 大阪と江戸で修業を終えた仲平に安井家で嫁を取ることになった。父が思案した娘には断られたが、その妹佐代からよい返事をもらう。佐代からの希望である。しかし、器量よしで小町といわれるほどの美形で年も離れていて、なんとなく仲平とは不釣合いである。
③ 仲平と父が講壇に立つ学問所の書生たちに対しても、繭を破った蛾のように内気な性格を脱して、佐代は天晴れな夫人になる。自分の欲求を満たしてくれるものに接近行動を示す佐代の情動であろう。江戸を出ること二度三度、仲平は四十にしてようやく世間から学殖が認められる。妬みから容姿に纏わる陰口が聞こえてくる。しかし、佐代は女の子を三人出産し、陰口など何処吹く風である。佐代にも当然母としての喜びの情動が生まれる。仲のよい知人からは、無遠慮なお世辞が聞こえてくる。先生に仕えるわけだから、ご新造様は先生以上に学問をしていると。
④ 佐代は三十を過ぎて男子を二人産んだ。母としての自覚と夫への献身が増々強くなり、仲平は大儒息軒先生として天下に名を知られる。時代は、ペリーの浦賀来航と尊皇攘夷である。その折、大井伊直弼が桜田門外の変で倒れる。そして佐代は五十一で他界する。
⑤ 佐代とはどういう女だったのか。美しい肌に粗服をまとい、質素な仲平に仕えつつ一生を終えた。佐代は夫に仕えて労苦を辞さなかった。夫に対する献身の気持ちが強い。これを外から内への思考とすると、佐代の脳の活動は誘発と考えられる。報酬として何物も要求しなかった。立派な邸宅に住みたいともいわず、結構な調度を使いたいともいわず、うまい物を食べたがりも面白い物を見たがりもしなかった。また物質的にも精神的にも何物も希求しないほど恬澹だった。
⑥ 佐代は何を望んだのであろうか。夫の出世であろうか。それでは月並みである。未来に向けて何かを望んでいたのである。それが何か識別できないほどに尋常でない望みであって、その望みの前では一切の物が塵芥のごとく卑しくなってしまう。恐らくそれは夫を敬う忠義の心、献身であろう。
上記第二章の論文「読む・書く」で説明した【要約の手順】に照合させる。
◇ 要約文を4段落(起承転結)で考える。①が起、②が承、③と④が転、⑤が結になる。
◇ 段落毎にキーワードを探す。②であれば、仲平、嫁を取る、佐代、美形で年も離れている、仲平とは不釣合いにする。
◇ 段落毎に中心文を探す。②の中心文は、「大阪と江戸で修業を終えた仲平に安井家で嫁を取ることになった。」にする。
◇ 中心文を使用して、その段落を要約する。できるだけ5W1Hも考える。キーワードとキーワードを助詞や動詞でつないでいく。
◇ テーマ・レーマも考慮すること。例えば、「嫁を取る」が旧情報で、「佐代からよい返事」や「佐代からの希望」が新情報。
花村嘉英著(2017)「日本語教育のためのプログラム-中国語話者向けの教授法から森鴎外のデータベースまで」より