「ブルジョワ世界の終わりに」から見たゴーディマの意欲についてー脳の前頭葉の活動を中心に1


1 ゴーディマの意欲

 1950年代の南部のアフリカは、反アパルトヘイト運動が崩壊状態にあった。しかし、ナディン・ゴーディマ(1923-2014)は、この革命に白人がどのように関与できるのかを自問し、世の中の流れと逆流している自国の現状に危機感を抱き、何かの形で革命に関わりたいという意欲を持っていた。こうした作家の脳の活動は、この革命が南アフリカの将来を見据えたリスク回避であることを想定させる。
 無論、白人リベラリズムが全盛のときに、何を訴えても焼け石に水である。2017年の今だからこそ、当時の改革案は正当化される。何とかしようという意欲はあっても、外部からの規制により大抵は気持ちが空回りしてしまう。空回りした気持ちは、「空間と時間」という組み合わせでしか表現できない。しかし、メディカル表現がそれを補足する。補足というよりも、意欲は、一般的に前頭葉の前頭前野皮質が管理をし、それとリンクする適応能力は、脳全体の機能により説明される。ゴーディマがいう無限を表すための組み合わせ「空間と時間」にまつわる適応能力を考察するには、前頭前野皮質だけの働きではなく、脳全体、つまり身体全体の働きを考察の対象にするとよい。
 この小論で取り上げるゴーディマの作品は、主人公が過ごした一日を問題にしており、パートナーのマックスの自殺が鍵を握る。自殺するまでには、何かのストレス障害が発生していると考えられる。例えば、意欲があっても政治や法律により拘束され、社会への適応が阻害されることもある。ネルソン・マンデラ(1918-2013)も27年間牢獄に監禁されていた。
 なお、ここでの分析法は、花村嘉英著「日本語教育のためのプログラム」(2017)で森鴎外の「山椒大夫」のために採用したものと同じである。

花村嘉英(2018)「『ブルジョワ世界の終わりに』から見たゴーディマの意欲について」より


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