事情が好転し、マリアは子供(ハントケ)と本を読み自身のことも語るようになる。彼女の関心は政治、特に社会主義である。しかし、個人的な支えとなるとは思っていない。他に趣味はない。楽しい一方で精神的にダメージを受け、次第に抑うつの症状が現れる。(Wikipedia2)
抑うつは、うつ病の主な症状の一つで、憂うつ感と不安感が混じったものである。日本成人病予防協会(2014)によると、気分がふさぐ、気が滅入る、将来に対して悲哀感や絶望感を抱える、現実感が失われる悲観的になる、なんとなく漠然とした不安感を持つ、些細なことに腹を立てるなどの症状がみられる。マリアの場合、気分障害でも躁うつ双方の状態がみられ、両極型の症状である。但し、うつ症状が主で、躁状態は軽い段階で済んでいる。
その後、マリアは、病気になり頭痛を薬で抑え、はっきり考えることができなくなる。精神科に行くと、精神虚脱といわれて旅行を勧められ、ユーゴスラビアへ行く。確かに刺激の少ない環境で静養することは好ましい。しかし、旅は功を奏さず、再び薬に溺れる。自殺を考え、部屋に引きこもるようになる。死への憧れが日に日に強くなった。
ペーターと手紙のやり取りがあった。彼は、母が自殺を考えないようにしようと試みた。しかし、回避できなかった。ある日、マリアは知り合い全員に別れの手紙を書いてから、睡眠薬と抗うつ剤を多量に服用し自殺した。日本成人病予防協会(2014)は、うつ病の患者の90%以上が睡眠障害を引き起こすとし、うつ病の症状は、朝に最も強く現れ、夕方になると心身共に楽になっていく日内変動としている。
この小論では、‟Wunschloses Unglück”についての購読脳を「母の半生と精神疾患」とし、執筆脳を「記憶と感情」にする。また、母マリアの精神疾患はもちろん、作者自身も感情の表出を余儀なくされたため、‟Wunschloses Unglück”のシナジーのメタファーは、「ハントケと感情の縺れ」にする。自身とは距離を取るも母とは決して取ることができない感情である。
花村嘉英(2020)「ペーター・ハントケの『幸せではないが、もういい』の執筆脳について」より