2.2 第三の眼
現在、一人の作家は、意を刻み、民俗文化を強調し、総じて疑いもする。私の出生、使用言語、中国の文化伝統は、自然と身の上にあり、文化も総じて言語と密に創刊し、感知を形成し、ある種の思考や表現は、隠れた特殊方式を比較する。しかし、作家の創造性は、この種の言語で言い過ぎたところから始まり、この種の言語で十分に表現しないところは、訴えていう。言語芸術の創造者として自己に民族意識を張らなければならない。
文学作品の超越した国境は、翻訳や語種を越え、地域や歴史を越えて形成する特定の社会習俗や人間関係、深く染み出る人間の性質は、人類普遍が互いに通じ合う。作家は、誰でも民族文化の外にある多重文化の影響を受け、民族文化の特色を強調し、旅行業で広告を考慮しなければ人生を疑う。
文学は、人の生存に対し苦難の世話をしてくれる。文学に対する限定は、総じて文学以外の政治、社会、倫理、習俗の企画が文学に鋏をのせ、各種の枠組みに至り、装飾として好まれる。
文学は、権力を飾り付けず、社会の風雅に非ず、自ら価値判断を有する。つまり、審美を理解する。審美は相関し、文学ならではの判断になる。文学を通じて良く影響され、鑑賞力が身に付く。閲覧中から作者に詩意の興味を与え、崇高が笑いを生み、悲しみが怪談となり、幽黙は嘲諷になる。
詩意は、抒情より来て、作家の無節制による自変は、幼稚病であり、初めて学んで書くときはこれを免れない。抒情には多くの区切りがある。詩意は、隠れていて距離を持って注視する。この注視は、作家本人を審査し、著作の人物を越え作者の上にあり、作家の第三の眼となる。
文学は、芸術と同じではあるが、モダンで年と共に変わり、価値判断は、時代の流行を区別することに等しく、芸術において新たなものになる。作家の価値判断が市場の行動を追従するならば、文学の自殺行為になる。
花村嘉英(2021)「高行健の『朋友』で執筆脳を考える」より