作家がもし思想の自由を要すると思うならば、それはすでに逃亡になる。黙っていれば自殺と同じで、当否は、自殺を封じる。さらに自分個人の声を発する作家は、逃亡するしかない。毛沢東の時代には、逃亡を続けることもできなかった。個人で独立志向を保持したければ、自言自語は可能でも秘密裏に行う。自言自語は、文学の起点であり、感受を起して思考を言語の中に注入し、書面を通して文字に訴えると、文学が成立する。
高行健の執筆の履歴は、文学が根本的に自身に対する価値の確認になり、書く際にすでに肯定がある。文学は、まず作者自身が満足を要求し、社会の効果の有り無しは、作品完成後のことであり、作者側が決めることではない。
言語は、人類の文明による結実であり、精微であり、難を持って理解し、利用できる機会を使い、感知を貫通し、感知の主体に対し世界の認識を同封しリンクを張る。書き留めた文字を通過するとまた奇妙になり、孤立した個人に任せ、異なる民族や異なる時代の人でも橋渡しをする。文学の執筆や閲覧の現実性が他と同様に恒久の精神価値を有し、こうしたリンクがともに起こる。
花村嘉英(2021)「高行健の『朋友』で執筆脳を考える」より