壺井栄の「二十四の瞳」の執筆脳について2


2 「二十四の瞳」のLのストーリー

 壺井栄(1899-1967)の「二十四の瞳」は、1928年4月4日、瀬戸内海の寒村の小学校に大石という若い女性の先生が赴任する話から始まる。それ先駆けて、同年2月に普通選挙法の下で第一回の選挙が行われ、同年3月15日に三・一五事件が発生した。  
 鷺(2018)によると、当時人間解放を叫び、改革を目指す新たな思想に日本政府が圧力を加え、多数の日本人が検挙された。また、世の中が不景気になり、誰もが倹約を必要とした。続けて1931年9月に満州事変、1932年1月に上海事変が起こり、瀬戸内からも軍隊に招兵された。物語の始まりから激しい4年の月日が経った。しかし、海の色や山の姿は変わらず、子供たちは、大きな歴史の中に置かれているとは考えていない。
 「二十四の瞳」には、赤い先生の稲川が治安維持法にかかり教育界から追放される事件がある。それに託けて小林多喜二は、小説家として警察で死んだ人として登場する。1928年に行われた普通選挙で労農党の候補を応援した時、共産党への弾圧や国家維持法違反による労農組合員の逮捕を受けて、小林多喜二は強い憤りを覚えた。大石久子先生は、生徒たちにプロレタリアを知っているか質問した。誰も知らない。壷井栄は、同胞の一人として多喜二の遺体を清めている。
 船乗りの妻として過ごした大石先生は、大吉、並木、八津という男二人、女一人合わせて三人の子の母親となっていた。さらに4年が経ち、時代は日華事変、日独伊防共協定の締結、国民精神総動員という世の中になり、寝言でも国の政治を口に出してはならない状態であった。  
 1945年8月15日、ラジオ放送を聞くために学校へ召集された大吉は、原爆の残虐さがそのことばとして意味だけ伝えられたため、敗戦の責任を背負ってしょげていた。そこに妹の八津の死が重なる。青い柿の実を食べて付着していた卵が人体に摂取され、小腸に回虫が発生し急性腸カタルになった。八津は、戦争に殺された。
 鷺(2018)は、「二十四の瞳」の特徴として登場人物の無名性と場所の限定がないことを挙げている。この作品を読めば、喜びや悲しみの中で過ごした激動の昭和の歴史を確認することができる。戦争が一家の働き手の父や夫を奪い、40歳過ぎても臨時教師として大石先生は働いている。そこで、「二十四の瞳」の購読脳は、「感情の共有と戦争の悲惨さ」にする。辛い戦争体験が描かれる一方で、瀬戸内に生きる庶民の知恵もあるため、執筆脳は「ユーモアと母性愛」である。「二十四の瞳」のシナジーのメタファーは、「壺井栄と大母性」になる。 

花村嘉英(2020)「壺井栄の「二十四の瞳」の執筆脳について」より

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