偶然性は、消去できる見せかけの仮象ではない。絶対的なものである。無償である。そのことを理解すると、気持ちがむかつき、吐き気をもようすことになる。
もう少し、自分のことを語るのは止める。なんの役に立つのか。吐き気、恐怖、実存、これらのことはすべて自分の胸にしまっておく方がよい。
最も強い強烈な恐怖や吐き気の際に、自分が救われることを期待していた。まだ若いし、やり直す十分な力がある。しかし、何をやり直すのであろうか。私は死に、一人で自由であり、けれどもこの自由は、死に似ている。
今日、私の肉体は衰弱しているため、吐き気は耐えられない。しかし、病人でも、病気の意識を忘れてしまうほどの幸福で衰弱なときがある(Aujourd’hui mon corps est trop épuisé pour la supporter. Les maladies aussi ont d’heureuses faiblesses qui leur ôtent, quelques heures, la conscience de leur mal)。吐き気は、また戻ってくるとわかっていても、短い猶予を与えてくれた。
また発作がおきるのではないかとか次はもっと激しい発作かもしれないといった不安が消えなくなる予期不安は、パニック障害でよく見られる症状である。
ブーヴィルのエリアは、非常に静かで清らかである。ビクトル・ノワール通り、ガルヴァ二通りをよく散策した。吐き気もここを大目に見ている(emploierais-je ces derniers moments à faire une longue promenade dans Bouville, à revoir le boulevard Victor-Noir, l’avenue Galvani, la rue Tournebride? La Nausée l’avait épargné)。ペンを放さずに持っていれば、吐き気を遅らせることができる。頭に浮かぶことを書きながらそれをする。
過度なストレスは、体に置く影響を及ぼすが、適度なストレスだとよい影響になることがある。ストレスを受けたときに、脳内にβエンドルフィンや副腎皮質刺激ホルモンが分泌され、集中力や注意力を高めてくれる。吐き気のありかは、台なしになった私の人生に関する観念の下にある。私の人生の上には、機械的な計算があった。吐き気は、曙のようにおどおどしている。
そこで、サルトルの「嘔吐」の購読脳は「吐き気と実存」にし、執筆脳は「自己への関心と執筆」にする。シナジーのメタファーは、「サルトルと自覚存在」である。
花村嘉英(2022)「ジャン・ポール・サルトルの『嘔吐』で病跡学を考える」より