5 ドイツの危機感
科学革命が周囲で進んでいるときに、そこから文学は何をしたのであろうか。「魔の山」(1924)の作者トーマス・マンを引き合いに出して説明してみよう。「魔の山」の舞台は保養地で有名なスイスのダボスである。主人公のカストルプは、戦火を離れてサナトリウムで従兄弟とともに療養し、そこに逗留する人々と数年に渡って情報のやり取りをする。こうした下界では得られない経験がカストルプに人としての成長をもたらし、「魔の山」のイロニーを教育的なものにした。
トーマス・マンはかねてから、人間は社会から離れて自己の関心を追うことなく、経験を本義として自己喪失の域に到達すれば精神的に完璧でいられるといっている。(スノー 1967)確かにそう思う。しかし、経験を積みながら自己喪失の域に到達しても、そこで固まってしまうとさらなる展開は難しい。カストルプはサナトリウムでの経験を糧にしてダボスから戦場へと向かう。
民主主義と進歩を目指す「魔の山」は、社会の秩序を壊すニヒリズムの克服が自身の教養を自ずとヒューマニズムに導く力になると主張している。(藤本他 1981) この主張の根底には、「非政治的人間の考察」(1918)がある。「考察」の中でトーマス・マンは、自分自身のために精神的で歴史的な場所を確認し、さらにドイツや欧州全体に向けて発展を呼びかけている。(T. Mann 1983)そのため「考察」は異文化風の論説としても読むことができる。
ドイツの魂とは国家の魂のみならず個人の魂も指し、精神的に豊かなドイツ人は誇り高く自己を支配する。こうした魂を盾にして文明の文士が活躍する。文明の文士とは戦争の敵でも平和主義者でもなく、戦争が文明に従事する場合には戦争を拒否しない。ところがドイツの侵略やドイツの抵抗を見ると戦争に抗議する。文明の文士が望むものはドイツの発展である。(T. Mann 1983)
トーマス・マンの危機感はドイツの発展が止まってしまうことであった。そのため発展が止まらぬように「考察」を続けていく。国家の不和や民族間の戦いを人間の文化とか社会生活のための基本的な問題と理解して、ドイツが進めた西の文明と東の専制政治に対する民族闘争を褒め称えた。従って、「非政治的人間の考察」から「魔の山」へと続くマンの論説は、ドイツ国民への告白でありメッセージといえよう。
花村嘉英(2014)「20世紀前半に見る東西の危機感」より