2.2 愚昧と甘受
愚昧は、愚かで道理がわからず、鋭敏さに欠け、滑稽なことをいう。一方、甘受とは、与えられたものをやむを得ないものとして逆らわずに受け入れることである。致し方ないともいえる。現状からの回避が困難で逃れようがなく受け入れざる負えない状況にある。万足と小狮子夫妻の代理出産に関する場面でこれらの違いを説明しよう。
小狮子も姑姑も些か精神的に正常ではない。小狮子の側から見ると、もう年をとって自ら出産することはできないが、代理出産により子供を授かることは一理ある。しかし、闇の取引であり、若い女が子供を欲しがるような振舞いを見ると、愚かで滑稽な面がある。
夫の万足から見るとどうであろうか。代理出産で親権を争い、裁判沙汰になっても譲ることなく赤ん坊を我が子として可愛く思う妻がいる。あれ程までに出産に関してうるさく口やかましくいってきた姑姑さえも一線を退いてからかつての面影はない。そうした状況で、万足としては、代理出産による赤ん坊を受け入れざる負えない立場にあり、甘受といえる。これにより子供を授かるという平等が実現され、法のレベルのみならず社会主義でいう平等に一応到達している。
ストーリーをまとめるために、万足は、魯迅の「祝福」を例に引く。自ら罪を犯した人間は、己を慰めようとする。祥林嫂は、生涯を見れば幸不幸の連続である。奉公に出て給金を貰い結婚もし子供にも恵まれた。しかし、丈夫な亭主がチフスで亡くなり、門外で豆剥きをしていた子供が狼に食べられた。一寸闇に闇がある。
春に獣が出るとは知らずとか子供が生きていたらと皆が聞き飽きるほど繰り返す。心的外傷後ストレス障害(PTSD)である。そのため、罪悪感から落ち込み不安にかられる。罪滅ぼしのために土地の廟へ行き、入り口の閾を寄進し、一応罪の意識から解放される。
しかし、風紀を乱したため雇い主から好かれることもない。冬至祭りでも仕事がなく失神して気力がなくなる。死後の魂や家族そして地獄を問う末期の血の気のない痩せた女が愚昧に加味されている。
花村嘉英(2020)「莫言の『蛙』でシナジーのメタファーを考える」より